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今日の法話2009/02/15

『演歌と無常観』

私が入会しているライオンズクラブには、カラオケクラブなるものがあります。また、度々ではありませんが、会の後の懇親会でも暫くするとカラオケが始まるのですが、実はそのカラオケが決まって演歌なのです。おそらく会の平均年齢が高いせいでしょう。私も歌は嫌いなほうではありませんが、私の演歌のデパートリーは非常に少なく、ノリが悪い、暗い、哀愁、別離などの印象が、もうひとつ私を演歌好きにさせない理由になっています。
しかし、この演歌の歌詞は、仏教の無常観に他ならず、日本人が忘れかけている非常に大事な信仰心を含む「こころ」であるに違いないのです。
 
「水にただよう浮草に おなじさだめと指をさす」は、牧村三枝子さんの「みちづれ」
「でこぼこ道や 曲がりくねった道 地図さえない それもまた人生」は、美空ひばりさんの「川の流れのように」
「夜更けの街に うるむ夜霧よ 知っているのか 別れのつらさ」は、石原裕次郎さんの「夜霧よ今夜もありがとう」
など‥‥

演歌の歌詞の決まり文句が、涙、別れ、雨、港、さだめ、いのちなど、人生そのものであることが、特にひと年取った人の心を引き付けるに違いありません。

しかし、ここで考えなければならないことは、仏教と演歌は、明らかに異なるということです。
それは、仏教は無常観の先に救いがあり、言葉を返せば、無常観ゆえに喜びを得る方法を授けてくれるのが仏様の教えなのです。
演歌のように、暗い酒場でさすらいに酔いしれるものとは明らかに違うのです。ただ、日本人は古より、和歌や俳句などを通して、こころを育ててきたこともまた事実であり、現在では演歌がその役目を担っていると私は思っています。

その上で、私の無常・流転の先には、救いとなる力(本願力)がお働き下さっていることを知らねばなりません。

平成21年2月15日