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今日の法話2010/09/26

「仏さまの教えは鏡のようなもの」

先日、バス停でバスを待っていた時のことです。
一つだけあるベンチに、女子高生(丈の長いスカート)が足を広げ、ベンチの半分ほどを占領し、携帯電話でメールをしながら座っています。しかも、彼女のものと思われるカバンがベンチの残ったスペースに置かれていますので、他の人が座るスペースは残っていません。
私は、「なんと非常識な!」と腹立たしい気持ちでいました。しかし、他に座ろうとする人もおらず、私も座るつもりはないのですから、取り立てて女子高生に注意する必要もありませんでした。
しかし、私は考えた末、ベンチのお尻が入るか否かのほんの少しのスペースに腰を下ろすことにしました。座ろうとしたその時です。
彼女が、「すいません。」と言ってカバンを自分の膝の上に置いたのです。
しかも、その「すいません。」の一言が、実に爽やかで、心のこもったものでしたので、私は肩透かしを食らった感じを味わうと共に、腹を立てた自分に恥ずかしさを覚えました。

私たちは、自分のことは自分が一番よく知っていると思っています。
自分の顔も自分が一番よく知っていると思っています。
しかし、自分で自分の顔を見ることは私たちにはできません。
私が見ているのは鏡に映った自分の顔、写真に写った自分の顔なのです。
鏡の顔も写真の顔も自分と同じだと言われそうですが、しかし、よく考えると、鏡の顔や写真の顔は、いつ見ても最高の顔であり、すまし顔です。
言わば、よそ行きの顔、偽りの顔なのです。

腹を立て、怒っている顔を写真に撮ることはありません。
夫婦喧嘩している時、奥さんが、「あんた、ちっと写真撮って‥。」なんて、言いますか。言うはずはありません。
鏡の前に座ったら、一番良い顔をします。写真に写る時も、ちょっとでも美人に写ろうと思って、すまし顔になります。

怒っている顔、悲しそうな顔は、自分にはわからない。
自分の顔は自分が一番よく知っていると言うけれども、そうではないのです。

仏さまの教えは、鏡のようなものです。
仏さまの教えにうつし出された自分の姿をしみじみと見つめさせていただく。
そこで、本当に今までは、自分の事は自分が一番よく知っていると思っていたけれど、自分ほどわからないものはないのだなあと気付かせていただく。
恥ずかしい自分であったと目覚めさせていただく。
これが仏さまの教えに出会うということなのです。

「なんと非常識な!」と女子高生に腹立たしい気持ちでいた時の私の顔はどんな顔だったのでしょうか。
おそらく見れたものではなかったに違いありません。
今日出会った女子高生は仏さまの化身であったのだと思いました。

H22.9.26