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今日の法話2006/12/13

「わがもの」と言えるものは何一つない

皆さん こんにちは。

満中陰のご法事の時のことです。
お経もご法話も終わり、お墓の納骨も済ませ、少しご自宅でゆっくりさせていただき、もうそろそろ失礼いたしますと、立ち上がり、荷物を持とうとした時です。

その日に法事を勤めた故人には、四人の子どもさんがあったのですが、皆が一同に、「本日は、本当にありがとうございました。」とお礼を言われました。
私も、ご縁をいただいたことのお礼を申しました。
すると、その子どもさん方の一人、一番上の娘さん(お年は五十半ばぐらいでしょうか)が、一番上のお兄さんに、「お兄さん、早く、お寺さんの荷物をお持ちして。皆で、お寺さんをお車までお送りしましょう。」と言われたのです。
車までと言っても、ご自宅からは、5分は十分かかる距離です。
私は、「いや、車までは遠いので、もうここで結構です。荷物も自分で持てますから。」と言うと、もう一度、娘さんが言いました。「お兄さん、早くお持ちして。お寺さんに荷物を持たせては、失礼です。」

私は、その時、「あっ、そうだった。」とその日、満中陰のご法事を勤めた故人である、その方々のお父さんのことを思い出しました。
お父さんも、私がお参りに来たときは、必ず私の荷物を持って車まで送ってくれていたのです。
私は、帰ろうと腰を上げていましたが、もう一度、座りなおして、「お父さんも、同じことをおっしゃり、私の荷物を持って、車まで送ってくれました。」
「今日のご法事は、帰り際まで、本当にありがたい。」
そう、私が言うと、その娘さんが、「一つでも、父の行っていたことを引き継いでいきたいと思います。」とおっしゃいました。

私は、亡くなられたお父さんは、この子どもさん方の中で、生きていると感じました。
言葉を返せば、子どもさん方は、亡くなったお父さんにより、生かされている命だと言えるでしょう。
そして、その子どもさん方により育てられた子ども、即ち、亡くなったおじいさんから言えば孫の中にも、おじいさんは生きているのです。

私たちは、日ごろ、自己中心的な我執にとらわれて生活しています。
「私の体」「私のこころ」「私のいのち」と言うように、私たちは、いつでも、「わがもの」という垣根を作っています。そして、その垣根を、欲により広げようともがいています。
しかし、静かに自分のいのちを考えてみるときに、私のいのちは、誕生により初めて出現したのではなく、無限の過去から受けつがれているのです。
無量の因縁によって恵まれ、育てられ、支えられている私たちには、この世に、「わがもの」と言えるものは何一つないのです。
私のいのちが、「生かされているいのち」であることを気づけよとの教えが仏教なのです。

平成18年12月13日