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今日の法話2018/03/02

「生かされるいのちをどう生きるのか」

 幼い一人息子を亡くしたキターゴータミーという母親がいました。
彼女はその死を受れ入れることができず悲しみに打ちひしがれ、どうにか子どもを生き返らせることはできないかと釈尊のもとを尋ねます。
 釈尊は母親に対して、「一人も死人が出たことのない家から白いケシの実をもらってくるように」と言います。
 キターゴータミーは無我夢中で町中を歩き回りますが、死者を出したことのない家はどこにもありません。そして、彼女は歩き回るうちに、死は誰もが避けることのできない出来事であることに気づき、自分自身の人生の問題に目覚めていきます。

 あらゆるものは、絶えず移り変わり、けっして永遠ではないという教えを諸行無常と言い、この世に生を受けたものは必ず死を迎えなければならないという教えを生者必滅と言います。
  しかし、この教えを聞いても、死を受け入れることは、そう簡単ではありません。
 愛する人との別れを通して、人の世のはかなさ、いのちのもろさを知り、避けられない死を縁として、生かされるいのちをどう生きるのかを考えさせていただくのです。
 仏教に「生死一如(しょうじいちにょ)」という言葉があります。
生死とは、人生のことで、生と死は表裏の関係です。
死を考えずして、生は存在しませんし、死無くして、清浄の地、浄土へ往生することはできません。

「我が浄土へ生まれよ」との阿弥陀様の呼び声、南無阿弥陀仏を称えさせていただき、お浄土へ生まれるいのちを生かさせていただきましょう。