お寺からのお知らせ2026/08/24
「墓じまい」「仏壇じまい」について
「墓じまい」「仏壇じまい」という言葉が、昨今、世間や一部の業者によって広く使われるようになりました。もともと宗教的な意味を持つお墓や仏壇を、あたかも不要になったものを処分するかのように「じまい」という言葉で括ることに、私は少なからず違和感を覚えています。
もちろん、少子高齢化や核家族化、地方から都市部への人口移動などにより、お墓や仏壇を守っていくことが容易ではなくなっている現実があります。
「子どもに迷惑をかけたくない」
「跡継ぎがいない」
「遠方に住んでいるので、お墓を守ることが難しい」
そうした思いから、墓じまいや仏壇じまいを考える方がおられることも、十分に理解できます。
しかし、ここで一度立ち止まり、「お墓を守るとは、一体何を守ることなのか」と考えてみる必要があるのではないでしょうか。
人は人生の中で、大きな壁にぶつかることがあります。そんなとき、「自分は一人ではない」という感覚が、生きていく力になることがあります。
墓前で手を合わせる姿を子どもに見せること。
家族で連れ立って、お墓参りをすること。
仏壇の前で手を合わせること。
そこには、言葉では簡単に説明できない「いのちのつながり」を感じる時間があります。
私たちは、決して自分一人の力だけで、今ここに生きているのではありません。親があり、祖父母があり、そのまた先のご先祖があり、数え切れないほどのいのちのつながりの中に、今の自分があります。
お墓や仏壇は、そのことを静かに確かめる場所でもあります。
墓を守る、仏壇を守るということは、単なる「形の維持」ではありません。そこに手を合わせることによって、ご先祖から受け継いだいのちの尊さを感じ、家族のつながりを確かめ、次の世代へ大切なものを手渡していく。そのような「心の継承」の場を守ることでもあるのです。
ところが現在、街のあちらこちらで「墓じまい」を掲げる看板を目にするようになりました。もちろん、業者にもそれぞれの事情や役割があります。しかし、建立需要が減少する中で、墓石の撤去や処分を新たな収益源として位置づける動きがあることも否定できません。
「子どもに迷惑をかけたくない」「跡継ぎがいない」という現代人の不安に対して、「墓じまい=賢い選択」「墓じまい=将来への安心」というイメージを与え、撤去を一つの解決策として提示する。そこには、現代社会の変化に対応した一つのビジネスモデルが成立しているようにも見えます。
だからこそ、お寺の側から発信しなければならないことがあります。
それは、「なぜお墓を守るのか」という問いです。
単に「お墓を残してください」と訴えるだけでは、現代の人々の心には届きません。
お墓を守ることが、なぜ人生を豊かにするのか。
なぜ家族の安心につながるのか。
なぜ次の世代にとって大切な場所になり得るのか。
その本質を、私たちは改めて伝えていく必要があります。
親が「墓守を子どもへの負担」と考えてしまう背景には、「自分のことで子どもに苦労をさせたくない」という親心があるのでしょう。
遠方に暮らす子どもに、管理や費用の負担をかけたくない。自分が亡くなった後、子どもたちに面倒を残したくない。そうした思いから、「お墓はいらない」「自分の代で墓じまいをしよう」と考える方も少なくありません。
しかし、「子どもに負担をかけない」ということと、「子どもから大切なものを奪わない」ということは、必ずしも同じではありません。
墓前で手を合わせること。
家族でお墓参りをすること。
仏壇の前で手を合わせること。
そうした何気ない姿の中には、親から子へ、そして子から孫へと、言葉だけでは伝えることのできないものが受け継がれていきます。
「自分の命は、自分だけのものではない」
「自分もまた、多くのいのちに支えられて生きている」
「人は一人で生きているのではない」
そうした感覚は、教科書から学ぶものではありません。親が手を合わせる姿を見て、子どももまた手を合わせる。家族でお墓参りをする中で、ご先祖のことを聞く。その積み重ねによって、いのちのつながりや感謝する心が静かに育まれていくのです。
もちろん、お墓や仏壇という「形」そのものが絶対なのではありません。大切なのは、その形を通して何を受け取り、何を次の世代へ伝えていくのかということです。
形と心は、切り離して考えることができないのではないでしょうか。
「子どもに迷惑をかけたくない」と思って、できるだけ何も残さないようにしたはずなのに、結果として、子どもたちの手元に残ったのが、お金や土地といった「目に見える財産」だけになってしまう。そして、それをめぐって家族の縁が壊れてしまう――もしそのようなことがあれば、これほど皮肉なことはありません。
もちろん、財産争いの原因を墓や仏壇の有無だけに求めることはできません。しかし、親が生前からお墓や仏壇を大切にし、家族とともに手を合わせてきた家庭では、そこに「お金や財産以上に大切なものがある」ということが、言葉にされなくても伝わっていることがあります。
先祖や親への感謝。
自分の命が多くの人の支えによって成り立っているという自覚。
そして、「自分さえよければいい」という思いを抑える心。
手を合わせるという行為には、そうした目に見えない心の働きがあります。
本当に子どもの幸せを願うのであれば、残すべきものは財産だけではありません。
どんな困難なときにも立ち返ることのできる心のよりどころ。
自分のいのちが、決して自分一人のものではないと感じられる安心感。
先に生きた人々への感謝と、自分もまた次の世代へ何かを手渡していくのだという自覚。
そうした「目に見えない財産」こそ、親から子へ、そして孫へと受け継いでいくべきものではないでしょうか。
お墓や仏壇は、単なる「物」ではありません。
そこは、先に生きた人々を偲び、自分自身の命のルーツを確かめ、今を生きる自分の心を見つめ直す場所です。そして、家族が集まり、語り合い、手を合わせることのできる場所でもあります。
だからこそ、お墓や仏壇の問題は、単なる「家の問題」や「管理の手間」の問題ではありません。それは、「私たちは死という避けられない現実と、どのように向き合って生きていくのか」という、宗教観や生死観に関わる問題なのです。
どれほど愛する人であっても、また自分自身であっても、いつか必ず死を迎えます。その避けることのできない有限性に直面したとき、人は何を支えとして生きていくのでしょうか。
仏事やお墓参りは、亡き人を偲ぶだけの行為ではありません。亡き人とのご縁を通して、自分自身の生き方を問い直し、受け継いだいのちの尊さに気づかされる大切な営みでもあります。
お墓や仏壇の前で手を合わせる時間は、日常の喧騒から少し離れ、自分自身の心と向き合う時間となります。
そして、親が仏事を営み、子どもとともに手を合わせる姿は、
「人はどこから来て、どこへ向かって生きていくのか」
「愛する人の死を、私たちはどのように受け止めるのか」
「限りあるいのちを、どのように生きていくのか」
という、人生にとって大切な問いを、言葉ではなく、その背中で伝えていく営みなのだと思います。
形があるからこそ、そこに足を運ぶ。
そこに足を運ぶからこそ、手を合わせる。
手を合わせるからこそ、自分が受け継いできたいのちに思いをいたす。
そして、その思いが、次の世代へとつながっていく。
もちろん、時代が変われば、お墓や仏壇を取り巻く環境も変わっていくでしょう。少子化や核家族化、遠方に暮らす家族の増加など、従来のようにお墓や仏壇を守り続けることが難しくなっている現実もあります。
しかし、だからといって、「墓じまい」「仏壇じまい」を時代の流れとして安易に受け入れてよいのでしょうか。
私は、そうではないと思っています。
お墓には、お墓でなければ果たせない役割があります。そして、仏壇には、仏壇でなければ果たせない役割があります。
家族でお墓参りに出かけ、墓前で手を合わせる。日々の暮らしの中で仏壇の前に座り、手を合わせる。子どもや孫がその姿を見て、ご先祖のことを聞き、自分がどこから来たのかを知る。そのような営みが長い年月にわたって積み重ねられることに、大きな意味があります。
私たちのお寺が墓苑を守り続けているのも、単に墓石を置く場所を維持するためではありません。
そこを訪れる人が、ご先祖に思いを寄せ、自らのいのちを見つめ、家族のつながりを確かめることのできる場所を、次の世代へ残していきたいからです。
仏壇も同じです。
仏壇は、家の中にある小さな仏さまの世界であり、日々の暮らしの中で手を合わせることのできる大切な場所です。そこに手を合わせる姿を子どもに見せることは、言葉では伝えきれない「感謝する心」や「いのちを敬う心」を、自然なかたちで次の世代へ伝えていくことでもあります。
お墓も仏壇も、亡き人のためだけにあるのではありません。
今を生きる私たちが、自分のいのちの根を確かめ、亡き人を偲び、心のよりどころを得るための大切な場所でもあります。
だからこそ、「墓じまい」「仏壇じまい」を単なる整理や処分の問題として考えるのではなく、そこに受け継がれてきたものの意味を、もう一度見つめ直してほしいと思っています。
お墓や仏壇を守ることは、古い習慣をそのまま守ることではありません。
それは、先に生きた人々から受け継いだ「いのちのつながり」と「手を合わせる心」を、次の世代へ手渡していくことなのです。
時代が変わっても、人が生き、愛する人を失い、そして自らもいつか死を迎えるという事実は変わりません。
だからこそ、いつの時代にも、人が自らのいのちを見つめ、亡き人を偲び、心のよりどころとする場所が必要です。
私は、寺院が守る墓苑と、家庭にある仏壇、その両方を大切に守り伝えていくことが、これからの時代における寺院の大切な役割の一つであると考えています。
法親寺住職 釋信哉