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今日の法話2006/11/02

僧侶の仕事

皆さん、こんにちは。

お寺は葬式や法事などの仏事を勤めるところだと思っている方が多いのですが、確かにそのような儀式も大事であり、おろそかには出来ませんが、もっと重要な仕事がお寺にはあります。
それは多くの人々の苦しみを聞き、共に悩み考えることです。

お釈迦様は人生一切皆苦とおっしゃいました。人生は苦しみの連続だということです。「人は誕生すると死への旅路が始まる」と言った人もいます。生は偶然、死は必然であり、死の恐怖は人の持つもっとも大きな苦しみだと思います。
老いる苦しみ、病気になる苦しみ、愛する人と別れる苦しみ、人生は四苦八苦だとお釈迦様はおっしゃっていますが、そのとおりだとみなさんも感じていらっしゃることだと思います。

何年か前のことです。あるご門徒のお宅へお参りに行きました。そこのお宅は70過ぎのお父さん、お母さんとその息子さん、その息子さんの奥さんと子供が3人の7人家族です。お父さんもお母さんも九州の方で岡山へ若い頃、仕事の関係で出てこられました。檀家になって20数年になると思います。お父さんもお母さんも信仰のあつい家庭で育ったということで、子供の頃から両親や祖父母につれられてお寺参りをしたと聞かせて頂いております。ですから、毎月お宅へお参りに来て欲しいと依頼をされて、決まった日におつとめに行っています。

その日、お参りに行きますと仏壇の横に見かけない祭壇がおいてありました。もちろん私はお母さんにたずねました。「これ、どうされたん?」
お母さんが申し訳なさそうに話してくれました。「実はむすこが突然病気になったんです。病気というのが脊髄小脳変性症という難病で、岡山県内の大きな病院をあちらこちらと行ってみたけど、1年もたたないうちに状態は悪化して、今では歩けなくなり寝たきりとなりました。」「むすこさんなんぼになるん?」私がたずねると「42です。」「42才というと私と同い年じゃないですか。」「子供が3人おられたよなあ、奥さんだって、気を落とされとるやろう?」そう言うと、「嫁はこんなになってから、子供を連れて出ていきました。…でも、子供は時々あそびに来てくれるから…」と、言葉をつまらせました。

医者からは、原因がわからず、処置のしようがないとさじを投げられたと言います。息子は気力を失い、死にたいとたびたびもらすと言います。歩行が出来ないほどふらついたり、痴呆に近い状態におちいったり、正気に戻ったり…
まさに突然の不幸の中でワラをもすがりたい時に、知り合いから、この祭壇をまつって拝んだら病気が治る、そう言われて、考えるひまも無くその人が置いていかれたそうです。ブライベートなことでもあり、くわしい話はできませんが、本当に悲惨な状態の中での悲痛な歎きを私に語ってくれました。

仏教の教えは、冒頭にお話ししたように人間の持つ本質を現実として見つめることにあります。しかし、だからあきらめなさいと言っているのではなく、その中から幸せを見出すことの重要性を説いています。
手を合わし、礼拝する行為そのものも、手へんに合わすと書いて拾うという字になるように、求めるばかりではなく、仏縁に合うことによって、気付かなかった幸せが拾えていくことを教えます。

私の答えは、「おがんで病気がなおるはずはありませんよ。」だったかもしれません。しかし、私はその時、そうは言いませんでした。
「浄土真宗の教えは、深く因果の道理をわきまえた教えであり、その教えをそっちのけにして、わけのわからない新興宗教にたよることは、仏教の教えからしても間違いだと思います。でも、医者からも見放され、我が息子に何かをしてあげたいと言う気持ちは、痛いほどわかります。お父さんやお母さんが、それをすることによって気がすむのなら、それを行なうことを私は否定はいたしません。」こう答えました。

そのお家からの帰り道、私は随分と自分の答えが良かったのかと、悩みました。正しい教えを説くべきが、その時の私の役目ではなかったのだろうか。
両親が息子を助けるために本当にしなければならないことを、わけのわからない宗教にうつつを抜かすことで、道をみあやまり、治療への努力をおこたったりしないだろうか。
間違った迷いの方向に導き、苦しみが増すことにはならないだろうか。
その日、私は寺へ帰ってから、少しでも治療に役立ちはしないだろうかと、医学書やインターネットのホームページでその病気について調べました。でも、明かりが見えるような内容ではありませんでした。

人は不幸な出来事に出会ったとき、それは運命だったのだと言います。
運命とは生まれた時から決まっていた出来事だということです。
しかし、それは悲しみをあきらめるための慰めの言葉でしかありません。
仏教は運命などという言葉を否定しています。
そうなるには、そうなるだけの縁の積み重ねがあったはずです。
縁とは原因であり、その縁によって結果が生じます。
すなわち、因縁の道理です。力を加えると、物が壊れる。これは力を加えた原因によって物が壊れるという結果となります。
この方の場合にも病気になったという結果には、その原因となる縁がどこかであったはずであり、それは遺伝などによる先天性のものであったかもしれないし、ウイルスなどによる外部要因かもしれません。
やはり、現実を知り、その中から新たなる方向性を見出していくことこそ、今の苦しみから抜け出る方法であるに違いない。
病気の現状を素直に認め、そこから新たなる努力をこころみることによって、今現在の縁は将来の結果としてあらわれてくるに違いない。
そして、その行為は仏さまとなった先祖も見守ってくれているに違いない。
浄土へ参ってからも働きづめに働き、子孫を見守り、その幸せをこいねがってくれているのが仏さまであり、その仏さまに感謝することが、仏教の教えだったはずだ。

次の日、私は余り希望を持てるような内容ではありませんでしたがと断り、その病気に関するたくさんの資料を両親にわたしました。
それから、現実から目をそらさず、諦めず、あらゆる努力をしてください。この二十年の間に亡くなったむすこさんのおじいちゃん、おばあちゃんも、仏様となって心配し、皆さんを支えてくれているに違いありません。こう付け加えて帰りました。

それから、数日後、そのお宅から電話がありました。
新しい祭壇は取り払うという報告と、ご先祖にことわりのお経をあげてほしいという依頼でした。
「気付いてくれましたか?」それだけ言って私は電話を切りました。
早速お宅へ行きますとお父さんとお母さんがそろって、こう話してくれました。

浄土真宗の仏壇の横に新しく作った祭壇を毎日朝昼晩と一生懸命拝んでいま  
した。二人で拝んでいる時にふと、顔を見合わせました。今まで、こうやって二人そろって先祖から受け継いだ仏壇を一生懸命お参りしたことがあっただろうか。
住職さんのお話に先祖は仏様となって自分たちを見守ってくれているとあったけど、そのことに感謝をして生活していただろうか。
そう思ったとき、自分たちが間違っていたことに気付きました。

私は「浄土真宗の仏様を拝んだからといって病気はなおりませんよ。」
そう念を押しますと「わかっています。これからは仏様に感謝をして、先祖から受け継いだ仏壇に毎日お参りを致します。」こう言われました。それから、「ちょっとお待ち下さい。」そう言われて、お母さんは奥の部屋へ行かれました。しばらく立つと車椅子に息子さんを乗せてお母さんが戻ってこられました。
数年来会っておりませんでしたから、もちろん変わり果てたご様子でした。「無理せんでいいよ」と言ったのですが、車椅子から降りて、正座をして私の前にすわりました。私が「がんばろうね」というと、こぶしを膝にあてて、そのこぶしを握り締め、下を向いて、涙をぼろぼろ落としながら、うなずかれました。「言葉はしゃべれないんです。」とお母さんが言いました。

それから、二ヶ月ほどが立ちました。近くまで行くと、知人の医者やボランティア団体などから得た情報などを伝えに立ちより、励ましの言葉もかけます。
息子さんは、失意からなかなか抜け出ることはできませんが、少なくともご両親はどうにかむすこを治してやりやいという希望を持ち、ひぐらしをしているように見えます。

大学を卒業する時、恩師から「僧侶は一生勉強だよ。吉田君。」とはなむけの言葉を頂戴致しましたが、僧侶の仕事は教義を学び、葬儀や法事などの儀式を勤めること、もちろんこれも大事なことだけども、それだけではいけない。
人の苦しみを聞き、共に悩み考えること、このことが一番大事な僧侶の仕事であり、そのためには一生涯が勉強なのだと思っています。

 平成18年11月4日