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今日の法話2008/11/11

『ある門徒とのやりとり ・ 法事は何のために勤めるのか?』

お寺の地区役員さんのところへ出向いたとき、その役員さんの担当していただいているご門徒さんから聞いた話として、私に伝えられたことは、「お寺さんに二十五回忌の法事を勤めていただけなかった。」というものでした。
法事のご依頼をいただいてお勤めを断るようなことはあるはずもなく、これは詳しくお話を聞く必要があると判断し、私は役員さんのお家からそのご門徒のお家へ早速、直行いたしました。

話を伺うと、数ヶ月前に当家の主の父親の二十五回忌の法事を勤めたが、その依頼をお寺(私)にした時、当家が今回の二十五回忌法要を父親の法事の最後にしたいとの意向であったにも係わらず、私がそれは出来ないとの返事をしたというものでした。
法事は勤めたが、私が帰った後で、親戚一同に話をすると、それはおかしい、何処の寺でも要望通りの法事を行なってくれるはずだ、それが出来ないというなら寺を代わればよいとまでの話になったというのです。

その話を伺ったとき、私の記憶は蘇ったのですが、確かに当家からそのような話を伺ったが、当家の主は夫婦とも70歳になったばかりであること、子供がいない家庭ではなく、成人した一男一女がいること、当家の主の母親の二十五回忌が8年後にあり、その年忌と今年二十五回忌を勤めた父親の三十三回忌が同じ年に当たることから、なにも切り上げる必要はないのではないかとの話をさせていただいた覚えがありました。

しかし、私の言葉に納得したと私は思っていましたが、実は理解していなかったということで、実に残念でもあり、十分に伝わっていなかったことは、私の責任でもあるので、改めて法事を勤める意味も含めて話をさせていただいたところ、今度は何とかご理解いただけたようなことでした。

しかし、ここで大事なことは、法事を何のために勤めるかということですから、最初に二十五回忌で切り上げるとの話が当家からあったとき、もっと教義について話すことが必要であったのであり、その点については、私の反省点となりました。

当家が二十五回忌を最後の法事としたかった理由は、子供に仏事の負担を掛けたくないというものでした。また、法事を勤めることは、自分の代の責任であり、責任を果たして早く楽になりたいとのことです。
確かに法事を勤めることは、私たち僧侶が思う以上に施主にとっては大変なことだと思います。
しかし、ここで考えなければならないことは、やはり法事を何のために勤めるかということであり、この理由がわかれば、なぜ私が二十五回忌を最後とするとの当家の要望にノーと言ったかの説明も理解できたはずなのです。
 
法事を勤めるのは、先祖の追善供養のためだと思っている人が以外に多いのですが、浄土真宗ではそのようなことは言いません。
阿弥陀様のご本願により先祖は浄土へ往生しているのであり、今生きている私たちも同様に阿弥陀様に救われる身であるのです。
法事は、亡き人を偲びつつ、私が仏法を聞くためのご縁であり、日頃、仕事や家事、趣味など雑事に追われて仏縁に触れる機会の少ない私たちに、仏となった先祖が迷いの世に還って教化(きょうけ)下さる場であるとあじわっていかねばなりません。
法事を通じて、阿弥陀様への報恩感謝をあらわし、生きることの意味やいのちの尊さ、自然の恩恵も含めて、多くの命の上に私の命が存続できていることへの感謝を行なう機会なのです。

即ち、法事は誰のためでもなく、先祖が与えてくれた自分のための行事と理解しなくてはなりません。
子供に負担を掛けると言う前に、大事な子供のためにも仏事を相続してもらい、子供や孫にも仏縁をもってもらうよう縁を授けてあげることが親の役目でもあるのです。

世間に、「お経をあげる」という言葉あるので、お経は先祖にあげるものだと理解している方も多いと思いますが、お経はあげるものではなく、私がいただいていかねばなりません。
そのことを仏となり、悟りを開かれた先祖は願っているのです。

その願いに応えて、仏事を有難く勤めさせていただきましょう。
 
平成20年11月11日