今日の法話2010/10/30
人の計らいを超えた存在の影響
先日、95歳の女性の葬儀がありました。大きな会場に有縁の方々が大勢参られました。子や孫、曾孫等々を始め、親族、友人などです。弔電やお供の生花などからして、会社関係や各種団体などではなく、後から施主を務めた息子さんからも聞きましたが、その女性のお付き合いのあった方々ばかりだそうです。
さて、奇しくも同じ会場で3日前に、同じく95歳の女性の葬儀がありました。
その方の場合、故人の子供数人の参詣者による葬儀でした。
施主を務めた息子さんに、「お孫さんたちはいないのですか。」と尋ねたところ、「それぞれに忙しいから。」との返事でした。
両家ともご門徒ですが、家庭の中のこと、経済状態まで寺が把握しているわけではありませんが、特に両家に経済的格差あるようには思えません。
何が違うのでしょうか。
両女性とも私がお参りに行き出した30年以上前からのお付き合いです。
お二人とも信仰心がありました。
外からは分かりませんが、しかし、目に見えて異なっていたのは、最初に話した女性の方は、子や孫と同居していた。後に話した方は一人暮らしであったことです。
豪華な葬儀が必要だとか、良いとか言っているのではありません。
一概には言えませんが、若いものにとって仏壇の有る無しの生活が、葬儀への臨み方に大きな差を生むことは確かです。
仮に同居ではなく、若い人の家に仏壇が無いのなら、おじいちゃん、おばあちゃんは、お小遣いがいっても孫を呼んであげましょう。
そして、共に仏さまにお参りして下さい。
葬儀は遺体の存在する最後の儀式となります。
そして、浄土へ参ったことを確認するご縁であり、残った者にとっても、自らのいのちについて考えさせられる場となるはずです。
こんな句があります。
「水打てば 葉ごと葉ごとの 月夜かな」
庭に打ち水をしてみると天上の月は一つしかないけれど、打ち水をして濡れた庭の木々の葉は、どの葉にも、どの葉にも天上の月が光り輝いている。
月は如来さま、打ち水は心に沁み入る仏法でしょうか。
それとも、月は亡き故人でしょうか。
昔の人は、月を見て亡き父や母を思い、手を合わしました。
亡くなってからも仏となって、常に自分たちを守ってくれる先祖の存在を感じていたのです。
私たちは人間としての生活を過ごしていますが、同時に人の計らいを超えた存在の影響を受けながら生かされていることを思いましょう。
H22.10.30