今日の法話2011/02/09
『生き方の原理原則』
世の中には原理原則がある。それは生活の自然法則といったものであり、私たちは、その法則によって生かされている。
仏教も、正にその原理原則の教えであり、今日まで人々の生きる指針となってきた。
しかし、現在、その原理原則から外れた教えが世の中に多く存在し、人々は原理原則より、その外れた教えに興味を示し、影響を受けている。それは、社会が小手先の生き方を成功哲学だと勘違いし、人々に推奨してきた結果だと思う。
米海軍の発行誌『プロシーディングス』の中で、フランクロックという隊員が報告した話は、原理原則が不変であることを物語っている。
訓練艦隊に属する二隻の戦艦が、悪天候の中、軍事練習のため数日間にわたり航海を続けていた。私は先頭を行く戦艦のブリッジの上で夕暮れを迎えた。視界が悪く断片的に霧がかかっていたため、艦長もブリッジに残り、状況を見守っていた。
暗くなってから間もなく、ブリッジの見張りが次のように報告した。
「艦首の右舷側の進路に光が見えます」
「停止しているのか、船尾の方向に動いているのか」
と艦長。
見張りの答えは、
「停止しています、艦長」
つまり、その船はこちらの進路上にあり、衝突の危険があるということだった。
艦長は信号手に命じた。
「その船に対し、信号を出せ。衝突の危険があるため、二〇度進路を変更せよ、と」
相手からの信号が返ってきた。
「そちらの方が二〇度進路を変えるよう助言する」
艦長は再び命令した。
「信号を送れ。私は艦長だ。二〇度進路を変えるように」
すると、
「こちらは二等水兵だ。そちらの方こそ二〇度進路を変えるように命令する」
と返事が返ってきた。
艦長は怒り出し、
「信号を送れ。こちらは戦艦だ。二〇度進路を変えろ」
と叫んだ。
点滅する光の信号が返ってきた。
「こちらは灯台である」
我々は進路を変えた。
煩悩にとらわれた凡夫である私たちは自分の力を過信し、自己の能力を原則だと勘違いし、努力の名のもとに自力作善を繰り返している。
しかし、原則は灯台である。
原則を忘れて、スキル≪生き方の技≫ばかりを習得しても真の幸せは来ないと思う。
H23.2.9