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今日の法話2016/03/06

『感謝と歓喜の私への転換』

 親鸞聖人は仰せになる 凡夫といふは 無明煩悩われらが身にみちみちて 欲もおほく いかり はらだち そねみ ねたむこころおほくひまなくして 臨終の一念にいたるまで とどまらず きえず たえず (一念多念文意)
 
 凡夫は、命終わるその瞬間まで、煩悩から離れられないものを言う。すべてのことを私中心にみて争いをおこし、欲望・怒り・妬みに、心と身体を悩ませ苦しみ続ける。仏法に出会うとき、煩悩に満ちみちている凡夫は、他の誰のことでもなく、この私のことと気づかされる。念仏申すひぐらしの中に、ありのままの私の姿を見せていただく。
 
 私たちは自己中心的にしか物事を見ることができません。人の幸せを私の幸せと感じることができれば、私の幸せは2倍になります。しかし、これは理屈の上のことであって、実際は嫉妬心から人の幸せを心から喜ぶことができません。
うらやんだり、ねたんだりする心が起こります。
 また、自分より優れていると感じる人には劣等感、自分より劣っていると感じる人には優越感を抱き、劣等感と優越感を行ったり来たりしています。
そして、そんな心が差別や偏見、いじめを生じさせます。
しかし、真実の教え、真実の光に照らされると私自身が明らかになります。
それは、仏の智慧を授かるからです。
 無常の中に生きる私であった、自己中心的な私であったと知らされ、智慧の眼に目覚め、仏の智慧が私に届いていることを実感することができます。
欲望が満たされないことへの不平不満の毎日であった私が感謝と歓喜の私へと転換され、仏(名号)の働きが称名という形で私の口から念仏になり称えられるのです。