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皆様 あけましておめでとうございます。
新年の「住職の一筆」は『聴聞(ちょうもん)』と書かせていただきました。
仏法を聴聞することです。
『聴』も『聞』も「きく」と読みますが、『聴』は心で聴くこと、英語でListen、『聞』は耳で聞くこと、英語でhearと私は理解しています。
すなわち、『聴聞』とは、耳で聞いて、仏様の教えが心に入ってくる状態を言います。
聞き方にもいろいろあります。
内容を忘れまいとメモを取りながら聞いたり、覚えようと頭で反復しながら聞いたり、『訊』も「きく」と読みますが、英語でask、言葉を挟んで尋ねながらの聞き方もあります。
仏法を聴聞し、仏の鏡に私が照らされた時、私の本質が明らかになり、私は罪深い存在であったと気づかされます。
阿弥陀様のご本願は罪深い私を救うためのものであったとのご本願のおこころを聴聞させていただくと、自然とお念仏が出てきます。
不信の私であっても、他力のお育てによって信心決定の身にならせていただくことができます。
蓮如上人は「仏法は聴聞に極まる(御一代記聞書)」と仰いました。
私は浄土真宗の修行は何かと尋ねられると、「浄土真宗の行は聴聞です」と答えるようにしています。
大無量寿経には「南無阿弥陀仏の名号を聞いて踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)する」と説かれています。
すなわち、名号のいわれを聞くものは、踊り上がるような喜びを感じるということです。
しかし、煩悩多き私はなかなか躍り上がるような喜びを感じることができません。
だからこそ、今年も南無阿弥陀仏のご本願のおこころを聞かせていただく聴聞に励みたいと思います。
南無阿弥陀仏