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今日の法話2017/07/22

浄土真宗の「来迎(らいごう)」のとらえ方

「私も90才を過ぎ、痛いところだらけで、早うお迎えが来んかと思うとるんじゃ。」
ご門徒さんから、こんな話を伺いました。
 
「お迎え」という言葉には、阿弥陀様が迎えに来てくれて、浄土へと連れて行ってくれるのだという感覚があるのでしょう。
「お迎え」のことを仏教では、「来迎(らいごう)」と言います。
では、浄土真宗では、この「来迎」をどのようにとらえているのでしょうか。
 
真実信心の行人は、摂取不捨(せっしゅふしゃ)のゆえに正定聚(しょうじょうじゅ)の位に住す。 このゆえに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生またさだまるなり。…… (親鸞聖人 ご消息)
 
《真実の信心を得た人(阿弥陀様の救いを信じて歓喜し、疑わない心をもった念仏の行者)は、阿弥陀様が摂め取ってお捨てにならないので、正定聚の位(必ず浄土に生まれ仏となることの定まった身)になるのです。 だから、 臨終の時まで待つ必要もありませんし、 来迎をたよりにする必要もありません。 信心が定まるとき、往生もまた定まるのです。》
 
「来迎」とは、臨終の時、助けてもらおうとする諸行往生の教え(自力の教え)なのです。
しかし、弥陀のご本願に抱かれた念仏者は、今ここで確かな救いのはたらきに出遇い、浄土往生が決まった身ですから、臨終を問題にすることなく、来迎をたのむ必要もないのです。
 
一人ではない、阿弥陀様と共に歩んでいる人生なのだとお念仏させていただきましょう。