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今日の法話2018/01/01

「聴聞とは仏様のお心を聞いていくこと」

皆様、明けましておめでとうございます。

今年も仏法を聴聞させていただき、阿弥陀様のぬくもりの中の私であったと喜ぶ日々を過ごさせていただきたいと思います。

仏法聴聞について、聴もきく、聞もきくと読みますが、聴には往く(往復の往)の意味、聞には来るの意味があります。すなわち、聴きに往ったら、聞こえて来るという意味なのですが、これは、ややもすると勘違いするところです。見えない存在ですから、少し疑い心もあって、仏様はどんな方なのか、私を納得させるため、私が信じるために聴聞しているのだと思っている方がおられます。

これは、誤った聞き方です。また、ただ聴聞を重ねてさえいれば、ボーと聞いていても良いということでもありません。

話は変わりますが、私はよくネットで買物をします。全国の名産や最近は入浴剤(温泉の元)などもインターネットで買いますが、月に何度も買っていると、その内、あなたはゴールド会員ですよというように、割引してくれるようになります。

これと同じように、お寺へ参り、聴聞を重ねることによって、その内、あなたは仏様の救いの対象になりました。というようにゴールド会員なるご利益がもらえるというものでもありません。

浄土真宗は聴聞が大事なのですが、その意味は、聞いてみたらすでに仏様の教えは私のところへ届いていた、仏様に抱かれていた私であったと聞かせていただくのです。

すなわち、自己中心的な私、自己中心的な存在であることすら、わからない私のことを仏様はわかってくださっているという仏様のお心を聞いていくことが聴聞で、このことを「あじわう」と言います。

親鸞聖人は、著書「教行信証 信巻」で、涅槃経のお言葉から、「信心に二つあり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて、思より生ぜず。」これを「信不具足と名づくなり。」と戒めておられます。聞くだけであって、あじわうことのない聴聞は真実の信心ではないということです。あじわって聞くから、阿弥陀様のお心が聞こえて来て、仏恩報謝の念仏が称えられるのです。

今年もしっかりと聴聞させていただきましょう。