今日の法話2007/06/21
僧侶は、法を語らねばならない。
皆さん こんにちは。
私も来年は50才になるのですが、この年齢になると、友人や知人の親の葬儀、時には、友人自身の葬儀に出会う機会も少なくありません。
もちろん、葬儀は、浄土真宗に限りませんので、他の宗旨の仏教であったり、仏教以外の宗教であったりすることもあります。
葬儀に参ることができなければ、通夜に参らせていただくのですが、その時に感じることは、何と法話を行う僧侶が少ないかということです。
身内の方が亡くなり、先程まで暖かかった身体は冷たくなり、いくら、名前を呼んだって何の返事も無い。いくら、揺さぶっても何の反応も無い。
いったい、私の愛するあの人はどうなったのか。何処へ行くのか。
それに、私の心は、何と、悲しく、辛いのだろうか。
何も手に付かない。
そんな、気持ちの中、気は動転し、わけもわからないまま、葬儀の準備のみが葬儀社の手によって進められる。
親しい方を亡くした方々が、最も法を必要としているときに、法を伝えることが仕事であるはずの僧侶が法を語らない。
み仏の教えを説くことをしない僧侶が増えつつあるのです。
通夜の席に参っているのは、当家の身内の方だけではありません。
会社関係の方もおられます。近所の方も、友人知人も参っています。
法を説けば、日頃、寺など参ったことのない方でも、この時ばかりは、話に耳を傾けます。
身近な人の死は、最も深く、命とは如何なる存在なのか、死とは何か、生きるとは何かについて、深く考えることの出来る機会なのです。
お釈迦様が亡くなられたとき、多くの方がその死を悲しみました。
仏典には、山のけものまでもが、その死を悼み悲しんだと伝えられています。
その中でも、もっとも悲しんだのが、日頃よりお釈迦様の身の回りのお世話をしておられた阿難というお弟子です。
何も手に付かない阿難の肩をたたく一人のお弟子がおられました。
アヌルダ尊者でした。
泣き崩れる阿難を励ましつつ、アヌルダ尊者は、夜通し説法したそうです。
「今夜は、お釈迦様が自らの死をかけて仏法を説いてくれた厳しい教えの夜に違いない。ただ、その死を悲しむのではなく、お釈迦様の死を悲しむ多くの人に、仏の教えを語る役目が、仏弟子としてあるのではないだろうか。」
こう、アヌルダ尊者が阿難に教え、阿難と共に仏法を語ったそうです。
これが、お通夜の歴史の始まりです。
人が人に教えることの中に、自身の死をかけて教えることほどに、真実味があり、厳しく尊い教えはありません。
生きるということは、「生・老・病・死」の苦しみが伴う。
そして、愛する人と離れ別れるところにある「愛別離苦」の苦しみが存在する。
この人生の確かな現実を知ること。
その中に、生かされていることの尊さと、また会える世界のあることの確かさを感じていくのです。
そのために、僧侶は、法を語らねばなりません。
平成19年6月21日