今日の法話2007/07/04
「有難い身体とこころの治療」
皆さん こんにちは。
ご門徒に、現職の頃、マッサージ師であった方がおられます。
一年くらい前、そのお宅へ、月忌参りへ行った時のことです。
ちょうど、その時は、その方もご夫婦で参加されたご本山への一泊二日の念仏奉仕団から帰って間もなかったこともあり、お参り後の話は、ご本山での話が中心となりました。
その話の中で、私は、夜あまりに疲れていたので、旅館に依頼してマッサージを頼んだことと、そのマッサージ師が上手とは言えず、残念であったことをその方に話しました。
その日の夜のことです。
その方から電話をいただきました。
「女房とも相談したのですが、私で良かったら、疲れた時に治療にお越し下さいませんか。ただし、阿弥陀様へのお取次をして下さっているお寺さんへの治療ですから、治療費はいりません。とにかく、お気を使わずにお越し下さい。」
このような内容でした。
それから今日まで約1年、毎月一度、治療に参らせていただいています。時に、余りにずうずうしいのでは‥‥とか、その方が七十を過ぎる年令なので、お疲れになるのではないだろうか‥‥と、私が遠慮していると、必ず治療への催促のお電話があるのです。
治療は、腕もさることながら、心のこもったものなので、治療の成果は言うに及びません。
治療の間の一時間ほどは、ご法義の話しに花が咲きます。
その方は、教義を良く勉強もされておられるのですが、何より良くご法義を聴聞されています。
「私は、目が見えなくなったことを喜んでいます。もし、目が見えなくなっていなければ、阿弥陀様に出会えなかったと思いますからね。」
「人に言っても信じてもらえないと思いますが、ある時から、真っ暗闇の中に光が見えるようになったのです。目の奥の方です‥‥。昼も夜も、いつも黄色い光が存在しているのです。」
こう言われるのです。
「私は、信じますよ。」
こう答えました。
私は、江津の妙好人、小川仲造さん市九郎さんの話を思い出していました。
市九郎さんは、20歳を過ぎてから眼を患い、治療の甲斐もなく、遂に失明した方です。
市九郎の失明を知った時、父親の仲造さんがわが子に贈った言葉、それは単なる慰めの言葉ではなく、これしかない贈りものでした。
「市九郎よ、だめじゃったげなな、一言だけ聞いておきたい。心の目はあいておるかい。」
後に、市九郎さんが言ったそうです。
「この言葉が、私の光でございました。」
その方に甘えながら、一年ほど続いている治療なのですが、今では、私にとって、身体の治療と同時に、こころに安らぎをいただける有難い一時となっています。
また、この法話の中で、その方との花咲くご法義談義の一つでも、ご紹介致したいと思います。
平成19年7月4日