今日の法話2008/04/15
「自殺であろうと、殺されようと必ず成仏できる」
皆さん こんにちは。
今回は、自殺、殺人など、その方の死が特別の死因であった場合について考えてみたいと思います。
その場合、残されたご遺族の心痛は計り知れないものがあり、深い苦しみを強いられます。
特に亡くなった方が仏となることができたのか否を知ることは、ご遺族のその後の人生を大きく左右します。
しかし、死後の世界を私達人間が見ることはけっして出来るものではありません。
それは、仏様の救いが人間の計らいなど及ばない、人間の小さな計らいなど許さない大きなお働きの世界の話だからです。
ちまたで、死後の世界を見てきたかのように話す人がいますが、真実かどうかはいささか疑問です。
世間の噂や迷信、仏教とは程遠いインチキな言葉に惑わされると、更に深い迷いと苦しみに落ちることになります。
結論から言うと、仏教は如何なることが死の縁となろうと、浄土往生(成仏)に関係するものではありません。
臨終のありようについて、親鸞聖人は、
親鸞八十八歳の文応元年(一二六〇)十一月十三日付の常陸(茨城県)奥郡の乗信房に宛てた手紙(『親鸞聖人御消息』一六)の中で、「善信(親鸞)が身には、臨終の善悪をば申さず、 信心決定のひとは、疑なければ正定聚に 住することにて候ふなり」とおっしゃっています。
また『歎異抄』(第十四条)で、親鸞聖人は、
「業報かぎりあることなれば、いかなる不思議のことにもあひ、また病悩苦痛せめて、正念に住せずしてをはらん、念仏申すことかたし。そのあひだの罪をば、いかがして滅すべきや。罪消えざれば、往生はかなふべからざるか。摂取不捨の願をたのみたてまつらば、いかなる不思議ありて、罪業ををかし、念仏申さずしてをはるとも、すみやかに往生をとぐべし。」とおっしゃっています。
阿弥陀如来の摂取不捨の願をたのみたてまつるものは、臨終の善悪にかかわりなく(いかなる死にようをしようとも)、かならず浄土に生まれることができると強調しておられるのです。
したがって、自殺であろうと、殺されようと必ず浄土に生れることが出来るのです。
ただ、私達は自らの死にようを計らってはなりません。それは、生きるということ、いのちをいただいているという現実がけっして当たり前ではなく、まれであったからです。
生れがたくして人に生まれ、多くのいのちと恵みをいただき、これまで自らのいのちを存続させているからです。
生きるということには、深い意味が存在します。
その深い意味をたずねていくことが、宗教の目的なのです。
平成20年4月15日