今日の法話2008/08/17
苦しみを生きる糧へ
先日のお葬式のときのことです。
満中陰法要が終わり、出していただいたお茶をいただいていると、若い息子さんを亡くしたお母さんが私のところへおいでになり、おっしゃいました。
「息子が私から離れないのです。」
どういう事ですかとお尋ねすると、このお母さんの五感を通して、目を閉じると息子の顔が浮かび、耳には元気な息子の笑い声が聞こえ、鼻からは息子の匂いが、肌からは息子のぬくもりが感じられ、息子の子供時代から現在までの思い出が次から次へと記憶としてよみがえり、一時も忘れることが出来ない。苦しくて仕方ない。一時でも忘れることが出来れば楽なのにと思うのです。と苦しみを語られました。
お釈迦様は、人生には愛するものと別れなければならないことによる苦しみ「愛別離苦」が存在するとおっしゃいました。
まさにその現実をまざまざと見た思いが致しました。
私はその時、こんな話をさせていただきました。
それは、天然の真珠が出来る過程の話です。
砂浜で息をしています。
息をしていると小さな砂やゴミが水といっしょに貝の殻の中に入ります。
たいていの砂やゴミは貝が息を吐くと水といっしょに外へ吐き出されます。
ところが、時々尖った他の貝のかけらや、少し大きめの尖った石が貝の殻の中に入ります。そのほとんどもまた、水といっしょに貝の殻の外へ吐き出されます。しかし、時にその尖った他の貝のかけらや尖った石が、貝の肉に食い込むことがあります。吐き出そうとしても、吐き出すことが出来ません。
無理に吐き出そうとすると、ますます肉の中に深く刺さります。
そんな時、貝はどうするかというと、自分の中から分泌液を出して、尖った石を幾重にも幾重にもくるんでいきます。やがて、尖った石は丸みを帯びてきます。貝は尚且つ、その石を丸く丸く仕上げていきます。
やがて、あの美しい真珠が出来るのです。
これは、私たちの人生ととても似ています。
五感を通じて忘れることの出来ない苦しみに出会うことが人生にはあります。
しかし、無理に忘れる必要はありません
無理に忘れようとすると、かえってこころを痛めてしまいます。
苦しみはけっして癒えることはありませんが、その苦しみを生きる糧へと変えることはできると思います。
その役割を担うのが宗教なのです。