今日の法話2009/03/07
『念仏者は往生浄土の行人』
唯信会の1月例会での質疑の時間に参加者からでた質問は、「往生浄土の教えは理解できるが、亡くなってからの幸せばかりを聞くと、現実を逃避しているようにも聞こえる。」といったものでした。
そのご門徒は、今まで寺に参ってこられたことがなく、昨年、唯信会に入会したばかりですから、私としては素朴な疑義として受け止めさせていただきました。
確かに、往生浄土の教えは、現実逃避、未来主義であるかのような誤解を生むのかもしれません。
浄土教思想の基本的特質ともいえる「厭離穢土(えんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)」とは、源信僧都の『往生要集』冒頭の章名に由来するものですが、娑婆世界を穢(けが)れた国土(穢国)として、厭い離れるという意味であり、阿弥陀仏の極楽世界は清浄な国土であるから、そこへの往生を切望するという意味です。
すなわち、穢土の悪性と浄土の清浄性を対比することによって、この世からの脱出と極楽浄土への往生を切望するための念仏を勧めたのです。
しかし、これを皮相的にみると、現実を無視し、現実から逃避し、ユートピアである浄土を願う自分勝手な教えのように思うかもしれません。
ただ、このような解釈は、前文でも述べたように、皮相的考えであり、浄土真宗の往生思想は、命終わったとき浄土で仏になるという未来における利益とこの世において、「正定聚不退のくらいに住す」とあるように、未来が保証されたこの世における利益を得ることができるのです。
このことは、この世の生き方、あるいは、現実社会の活動の中に、人間的限界を知り、浄土往生を可能ならしめる力が本願他力に他ないことを同時に信じる生き方が求められることでもあり、言い換えれば、厳しくもあり、安らかでもある生活、これが念仏者の生活なのですから、現実逃避とは程遠いのです。
『唯信会』(法親寺仏教壮年会)会則の目的を再確認すると、
《目的》
第1条
真剣に仏法を学び、この会を自身の後生の一大事の解決と今後の人生を考える縁とする。また、活動を通じて仏様に育まれている身であることをよろこび、生き方の実践という形にあらわし、念仏者として、仏法の鏡に身を映すことにより、深みのある生き方を形成することを目的とする。
とあります。
念仏者は、往生浄土の行人でなければなりません。
現実を逃避するどころか、現実に限りなくかかわり、この世において安穏ならしめる最大の努力を必要とするのです。
平成21年3月7日