みなさん、こんにちは。
「渋柿の渋がそのまま甘味かな」
お寺の掲示板にこんな言葉を書きました。
この季節が来ると、思い出す言葉です。
お寺の下は、ちょうど通学路になっていて、小学生や中学生、高校生が、大きな声を出して読んで通ります。小学生の中には、以前に書いていた掲示板の言葉を覚えていて、「この前は、こう書いとった。その前は、‥‥。」私は、山門の陰から聞いていて、思わず顔がほころびます。
「渋柿の渋がそのまま甘味かな」この言葉のあじわいをお話いたします。
私たちは、みんな仲良く手をつないで人生を渡っていきたいという願いを持っています。そして、誰しも、平和を願っています。しかし、世の中は、どうでしょうか。いさかいのない時はありません。戦争のない時代はありません。人間は、いさかいを起こさずには生きていけないのです。お釈迦様は、このような世界を、人間の住む罪悪によって穢れている世界、穢土(えど)とおっしゃいました。そして、そこに住む人間のことを、迷いの凡夫とお示しくださいました。
ところが、自分で自分が迷っていることに気付いている人は、あまりいません。だから、益々暗闇の世界へと沈んでいくことになります。
そんな私たちに眼を覚ませよと呼びかけてくれるのが仏様です。仏様の教えに会い、真実の鏡に照らされる自分の姿を見たとき、恥ずかしかったと気付く世界がある。
柿の渋も、太陽の光や風にさらされなかったら、渋が渋であるままなのに、さらされ渋が甘味となるように、私たちも、仏様のみ教えに出会ったとき、今までは、恨みの種でなかったものが、ご恩の眼で見えてくる。
仏様のみ教えによって、私の姿かたちは、変わらないけれど、私の中身が変えられていくのです。
仏縁に会いましょう。
平成18年11月24日