今日の法話2006/11/27
自分のことには無頓着
皆さん、こんにちは。
昔、ある四人の僧がいました。悟りを求めようと、山深いお堂にこもって、無言無黙の修行をしていました。無言無黙の修行とは、口を開くこと、即ち、しゃべることが許されない修行です。
夜もふけた頃、たった一本のロウソクを囲んで、静かに瞑想を凝らしていると、あばら家の戸の隙間から、風がスーと吹き込み、今にも火が消えそうになりました。
その時です、一番若い僧が、思わず、「あっ、消える。」と、叫ぶと、次の僧も、「消えた。」と言葉を出してしまい、瞬く間に、二人とも、無言の行を破ってしまいました。三人目のベテランの僧も、つい、「こらっ、お前ら、ものを言うては、ならん。」と、ものを言ってしまいました。ところが、四人目の老僧は、だてに年を重ねてはおらず、黙って修行を続けていましたが、しばらく経って、「ものを言うていないのは、俺だけだな。」と言ってしまったのです。
皆さんは、この話を聞いて、何をお感じになりましたか。私たちは、他人のことには、よく気が付いても、何と自分のことには、無頓着なのでしょう。
親鸞聖人は、こんな私たちのことを、「無明」と、お示し下さっています。
こんな、おもしろいお話があります。
ある刑務所で、娯楽の時間に、囚人が集まって、時代劇「水戸黄門」のテレビを見ていました。ところが、助さん、格さんが、あの有名な印籠を出して、「この印籠が眼に入らぬか。」と、悪者をやっつけ、たたきつける場面で、皆が一同に、拍手喝さいを送ったというんです。
なんと、おかしな話でしょうか。
無明を無明とも知らず、酔いしれている衆生を哀れみて、そんな衆生を救う如来様のおわしますことを喜ばれ、親鸞聖人は、ご和讃で、
無明の大夜を
あはれみて
法身の光輪
きはもなく
無碍光仏と
しめしてぞ
安養界に
影現する
(現代語訳)
煩悩に惑わされ、生死の迷いの深い闇に閉ざされている衆生を憐れんで、久遠仏からのはたらきかけは極まりなく、何ものにも障碍されることのない無碍光仏となって、安養の浄土に影のごとくあらわれてくだされたのが十劫仏の阿弥陀仏です。
と、お示し下さいました。
お念仏を、喜びましょう。
平成18年11月27日