今日の法話2006/11/30
「いじめ、自殺、殺人」
皆さん こんにちは。
「いじめ、自殺、殺人」と、毎日、新聞やテレビで、その話題が記事にならない日がありません。しかも、子どもたちが、その事件に関わっているのですから、世の大人たちは、「教育基本法案」を国会で議論したり、現状を深刻な問題として受け止め、何とかしなければと焦りだしました。
もう二十年近く前、「幼児教育」が盛んに言われていた時期がありました。その後は、「子どもの上手なしかり方、ほめ方」なるハウツー本が書店で数多く見られたりしました。そうやって育てたはずの子どもが、今の事件の当事者となっています。
どうしてでしょうか。
「幼児教育」にしても、「子どもの上手なしかり方、ほめ方」にしても、子どもの教育ではありません。良く考えてみてください。幼児に接する、大人の、父親や母親に対する教育であったはずです。
と言うことは、現在の深刻な現状は、不完全な大人の、子育ての失敗が生んだものと言えるでしょう。
私は、学生の頃、子供たちを集め、お寺の日曜学校を行っていました。子どもたちに、法話を話す時、先輩から言われたことは、うしろ姿の説法でした。口先だけでは、子どもに、法話は伝わらない。日頃の生活や生き方に、そして、自らのうしろ姿にこそ、子どもに伝わるものがある。
「子は親を見て育つ。」とも、言われます。現在、問題になっている、いじめや自殺などの、子どもを取り巻く問題は、現在の子どもが昔と変わったのではなく、その子と接する親や大人に問題があるのでしょう。
こんな話があります。
ある小学校の低学年の算数の時間に、先生が子どもたちに問題を出しました。
「ここに、りんごが4つありますね。この4つのりんごを、3人の子どもに平等に分けると、1人何個になるのかなあ。」
そうです。これは、分数の問題です。
しばらくたって、1人の子どもが、1番に、「はーい。」と、手を上げました。先生は、誰より早く手を上げたその子を指しました。
すると、その子は、「はい。」と、大きな返事をして、「1番大きなりんごを仏様にお供えして、残った3つを一個づつ分けます。」と答えました。
先生は、驚いたそうです。
もちろん、分数の問題ですから、その子の解答では、正解にはなりません。しかし、「一番大きなりんごを仏様にお供えする。」と、答えたその子の解答こそ、現代の子どもたちに欠けている部分なのだと思います。
衣・食・住は、私たちの生活の全体ですが、そのどれ一つをとってみても、自分で作り出したものはありません。多くの人の手を介し、その材料たるや、自然の恵みと命を授かって、私たちは生活し、自分の命を全うすることができるのです。まさに、私たちの人生は、多くの「かげ」の力で支えられています。先人は、その意味として、「おかげさま」という言葉を、私たちに残してくれました。
近年、恵まれた環境により学習できることから、人間の知識は、昔に比べ、向上しました。しかし、人間の知識は、向上したけれど、恵みを喜ぶ「智恵の眼」は、つぶれてしまいました。知識の眼は、鋭くなったけれども、智恵の目は、まったくダメになってしまったのです。
多くの支えによって、私たちは、生かされています。そのことを、親鸞聖人は、「他力」とお示しになりました。
私が生きているのは、私の力で生きているのだというのは、人間の思い上がりであり、私の力を支えてくれる大きな「他力」があるからこそ、私たちは、生きることができるのです。
ありとあらゆるものが、私を生かすために、一生懸命になってくれているのです。
だからこそ、私の「いのち」は、尊いのです。
平成18年11月30日