今日の法話2006/12/04
生を求め、死ぬことを恐れ、或いは、生を恐れ、死ぬことを求めている
皆さん、こんにちは。
ある書物に、筋ジストロフィー症で、23才の若さで亡くなっていかれた○○さんという方の詩が掲載されていました。
たとい短い命でも
生きる意味があるとすれば
それはなんだろう
働けぬ体で
一生過ごす人生にも
生きる価値があるとすれば
それは何だろう
もしも人間の生きる価値が
社会に役立つことで決まるなら
ぼくたちは
生きる価値も権利もない
しかし、どんな人間にも差別なく
生きる資格があるのなら
それは何によるのだろうか
筋肉がどんどん萎縮していく中で、「頑張れ!」と励まされても、「でも、頑張るって、どうしたらいいの。」と力なく問い返していたといいます。
14才のある日、思いつめたような表情で尋ねる○○さんに、父親は、正直に、「治療法なし。20才までの命。」と告げたのです。
その時の詩が、この詩です。
筋ジストロフィー症は、アキレス腱がつまって、つま先歩きとなり、体の重心をとるために腰椎が前湾し、腹を突き出し、肩を左右に振って歩きます。そして、さらに症状が進むと、歩くことすらできなくなり、最後には、座ることも、手足の筋肉を動かすこともできなくなります。しかも、常に想像を絶するほどの苦痛と闘う病気です。
○○さんは、一切の人間としての生活が否定されたような境遇におかれて、「どんな人間にも差別なく、生きる資格があるのなら、それは何によるのだろうか。」と問うているのです。
そして、自らの命の限界と宣言された20才の誕生日に、こんな詩を書きました。
ばかもの!それで、いいのか
早く死のうと、長く生きようと
20才をこえようと、こえまいと
人間は、有限な存在にかわりないのだ
生きている限りは
何かをしないではいられない
お前は伸びようとしている芽なのだ
なんと、力強い言葉でしょうか。
健康で、五体満足な私たちが、生を求め、死ぬことを恐れ、或いは、生を恐れ、死ぬことを求めていることが、恥ずかしいではありませんか。
愚痴ばかりが出て、欲ばかりが先に立つことが、なさけないではありませんか。
私は、○○さんの、この言葉は、自己の現実に目をそらすことなく、ごまかすことなく、真っ直ぐに見つめたところに開かれた言葉であるように思います。
私たちの人生は、どのような縁の中に生きねばならないかは、予想し得ないものであります。苦労して積み上げたものが、一気に崩れ落ちるかもしれません。
しかし、それを転じるところに、生命の本源との出会いがあるのだと思います。
そのことを、お経に、「無常菩提心を発し、無量寿仏を念ず」と説かれているのです。
平成18年12月4日