今日の法話2007/01/05
如来様のみ光の中の私
皆さん こんにちは。
宗教心を持つということは、いのちの重みを知ることであり、現世において、安心と幸せを得ることであります。
また、宗教と名のつくものは、必ず、後生(死後の世界)を説かねばなりません。
その方法は、幾通りもあります。
私の寺の所在地は岡山県玉野市ですが、玉野市は、香川県高松市と海を隔て、向かい合わせに位置しています。寺は、宇野の港から一キロほどの所にあり、本堂の屋根へ上がると、天気の良い日は、四国が見えるほどの距離です。
例えば、本州に位置する玉野市を、此岸(悩みと苦しみの現世)とします。そして、四国を彼岸(悟りの世界である浄土)とします。
本州から、四国へ渡る方法は、いろいろあります。
例えば、フェリーを使う方法、瀬戸大橋を渡る方法、ヘリコプターをチャーターする方法、泳ぎが得意の人は、泳いで渡ることだって不可能ではありません。もっとも、30キロほどの距離がありますから、大変危険を伴うと思いますが‥。
クルーザーを持っている人は、自家用ボートでだって渡れます。
まだまだ、様々な方法があるでしょう。
それと同じで、此岸から、彼岸へ渡る方法も様々あるのだと思います。だから、いろいろな宗教が存在し、それによって人々は、安心と幸せを得ているのです。
したがって、私は、どの宗教が悪いとか、どこかの宗教は、邪教だとかと、他の宗教を中傷することは致しません。
ただ、高いフェリー代を要求され、船に乗ったが最後、地獄行き。そんな宗教もあるので、注意が必要かと思います。
浄土真宗のみ教えは、この私が、如来様のみ光の中にいるのだということのぬくもりを感じることであり、光の国への旅であるということのなごみであります。
親鸞聖人がご本典「教行信証」六巻を結ぶに当たり、
慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。
深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。
慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
(まことに喜ばしいことである。心を本願の大地にうちたて、思いを不可思議の大海に流す。深く如来の慈悲のお心を知り、まことに師の厚いご恩を仰ぐ。よろこびの思いはいよいよ増し、敬いの思いは、ますます深まっていく。)
と讃嘆され、
しかれば末代の道俗、仰いで信敬すべきなり
(このようなわけであるから、末法の時代に生きる出家のものも、この教えを仰いで、信じ敬うべきである。よく、知るがよい。)
と仰せになったお心を今の世だからこそ、私たちは、頂戴しなければなりません。
如来様のひかりの中の私であったと気付かせていただきましょう。
平成19年1月5日