今日の法話2007/01/11
悩みや苦しみは幸せの生みの母
皆さん こんにちは。
テレビでお正月番組を見ていたら、池の水面をこちらの岸から向こう岸へ、長さ300メートル、幅50センチほどの長いボードを浮かべ、その上を吉本の芸人が自転車で何処まで走ることができるかのゲームを行っていました。
ゲームの始まる前は、簡単そうに見えましたが、参加者のほとんどが50メートルも進めば、池の中へ自転車ごとドボンと落ちていました。
しかし、池ならまだマシで、山の谷から谷へかけられた長さ300メートル、幅50センチの長い板の上を歩いて渡れと言われたらどうでしょう。板の下は、断崖絶壁です。おそらく、足がすくんで一歩も進むことが出来ないのではないでしょうか。
ところが、学校の運動場へ、長さ300メートル、幅50センチの板を敷いて、その上を歩けと言われれば、どうでしょう。歩くどころか、全力疾走で足ることすらできるに違いありません。
何故でしょうか。
それは、山の谷から谷へかけられた板の横には、まさかの時に足を踏みしめる余地がないからであり、反対に運動場に敷かれた板の横には、しっかりとした余地となる大地が存在しているからです。
人生は、道にたとえられます。人間の人生の長さも幅も皆同じだとしたら、生き方の違いは、何処に出るのでしょうか。
そうです。余地の有無、余地が如何にしっかりとしているかで、人生と言う道のりを安心して、歩くことが出来るか否かが決まるのです。
しっかりとした余地を作ること、それが宗教の役目です。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人の著書「教行信証」の総序の文を頂くと、「ああ、弘誓の強縁、多少にもあひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし」とあります。
(ああ、この大いなる本願は、幾度、生を重ねても遇えるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。おもいがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁を慶べ。)
「幾度生を重ねても会うことができない弥陀の本願に出会うことができた。」
「今こうして信を得させていただいた。」
そして、生命の大歓喜を、「ああ」という驚きの言葉として表現されています。
親鸞聖人は、浄土につながったところの人生という道を今日ある身に仕上げていただいたことを、しみじみとおよろこびになり、しかもそれは、私の力ではなかった。大きな仏様のお蔭であったと大喜びされているのです。
人生は、苦悩の連続です。しかし、その苦しみを通じて、悩みを通して人生は深まり、真実の教えに出会うことができるのです。
そして、真実の教えとの出会いにより、私の人生という道にしっかりとした余地ができるのです。
悩みや苦しみは、幸せの生みの母なのです。
平成19年1月11日