今日の法話2007/03/06
この私だけは、そなたを見捨てることはできない
皆さん こんにちは。
私の寺の檀家に、白内障から全盲になり、ついには最近、床に就いたままになったおばあちゃんがおられます。
月参りで、私がお経をあげる時も、何ヶ月か前までは、不自由な目でありながら、私が参ると、手探りで自分の部屋から出てこられ、私の後ろでお念仏されていました。
しかし、床に就いてからは、私が参っても出て来られず、今では、おばあちゃんの娘さんが、私の後ろに座って下さいます。
私はお勤めが終わって帰る時に、おばあちゃんの部屋の横を通るのですが、襖越しに声をかけるだけで、娘さんが襖を開けて下さらないのに、勝手に私が襖を空けるわけにもいかず、さぞ醜態になっているので見られたくないのだろうと思っていました。
ところが先日、お参りが終わり、いつものように襖越しに声をかけると、後ろにいた娘さんが襖を開けて下さったのです。
久しぶりにおばあちゃんの姿を見て、私は驚いたのです。
「おばあちゃん、どんなん?」と私は尋ねました。
すると、おばあちゃんは、「まあまあです。」と答えられ、床に就いたままで手を合わせ、娘さんに編んでもらったのでしょうか、暖かそうな毛糸の帽子をかぶった顔に最高の笑みを浮かべお念仏するのです。
全盲で、しかも床に就いて、お便所も一人で行けない身でありながら、なんと幸せそうな笑みを浮かべているのでしょうか。
元気な時は、よくお寺にお参りをされていました。
おばあちゃんの目が不自由になってからは、娘さんが代わりにお寺に参られています。
そして、娘さんは、お寺で聴聞したことを、家にいるおばあちゃんに話しているそうです。
私は、おばあちゃんは、寺へ参ることは出来なくなったけれど、この部屋で、阿弥陀様と出会っているのだと思いました。
人間は、老い、そして、病み、最後には、死んでいかねばなりません。
老いれば醜くもなり、病をすれば邪魔にもなるでしょう。
厳しいことながら、悲しいことながら、仕方がありません。
人生とは、はかなく、わびしいものです。
しかし、だからこそ、阿弥陀様は、この私のために、本願をもって立ち上がって下さったのです。
「世の中すべての人が、そなたを見捨てようと、この私だけは、そなたを見捨てることはできない。」と。
平成19年3月7日