最新情報Information

  • すべて
  • お寺からのお知らせ
  • お寺の行事
  • 今日の法話
  • 釋紗音の手書き新聞
  • 教化団体からのお知らせ

今日の法話2007/04/17

死ぬことを感じてこそ、生きることの喜びがあじわえる。

皆さん こんにちは。

先日、車を運転しながらラジオを聴いていると、面白い番組をしていました。それは、一人の子供が、何人かの子供にインタビューを行うというものでした。
そのインタビューの一つに、「あなたにとって一番怖いものは、何ですか?」との質問がありました。

ところで、昔は怖いもの代表として、「地震、雷、火事、親父」と言われていました。しかし、現在、「親父」だけは、その中から抜け落ちているように思います。
とにかく、親父が抜けているか否かはともかくとして、どんな答えが参加している子供達から返ってくるのかと興味を持って聴いていました。
すると、半数以上の子供が、「死ぬことだ。」と答えたのです。
子供の年齢は、小学校5〜6年生らしかったのですが、私はその回答に、驚きました。
年を取った者が、老いの苦しみと共に起こる死の恐怖、病の中から起こる死の恐怖を感じるというのなら理解もできるのですが、元気に遊び、お釈迦様の教え「生老病死」など、考えてもいないと思っていた子供達が、「世の中で一番怖いものは?」との問いに、「死ぬことだ。」と答えたのです。
私は、やはり宗教は、子供の教育に欠かすことのできない存在なのだと、改めて確信しました。

もう一つ、このラジオを聴いていて感じたことがあります。
それは、歎異抄第9条での、唯円の親鸞聖人への問いと、その問いに対する聖人の答えです。
唯円は聞きます。
「日頃、聴聞もして、信心もいただいたように思いますが、早く浄土へ参りたいと願う心が起きてきません。起こるどころか、シャバへの未練が残るばかりです。これは、どうしたものでしょうか。」
親鸞が答えます。
「そりゃ〜、唯円、信心が足りないからだよ。」と言ったかというと、そうではありません。
「唯円、お前もか、私も、そうだよ。しかし、唯円、そんな私たちだからこそ、本願のお目当てであり、いよいよ往生は決定的だと言いきれるのだよ。」と答えているのです。

子供であっても、青年であっても、老いていても、皆、生きることの裏に、死の恐怖があるのです。
忙しい毎日を過ごし、生活に追われている私達は、死の恐怖も忘れるでしょう。
しかし、死を考えずして、本当の意味での「生きる」ことの素晴しさは、あじわえないのです。

死ぬことを感じてこそ、生きることの喜び、生かされていることの喜びを感じられるのです。

平成19年4月17日