今日の法話2007/05/13
今日も生かされている
皆さん こんにちは。
今回の法話は、前回の続きになります。
ご門徒に旅館を経営されているお家があるのですが、私がお参りに行ったとき、そこの女将さんから、こんな話を聞きました。
ある日、家族ずれのお客さんが宿泊に来られたそうです。もちろん、旅館は精一杯のおもてなしでそのお客さん達を迎えました。お料理も瀬戸内の魚介類を仕入れ、板前さんたちが腕を振るって用意をしたそうです。
私も何度か、その旅館で料理をいただきましたが、料亭旅館なので、庭を眺めながら頂く高級な料理はとても豪華で美味しいものでした。
ところが、そのお客さんたちは、部屋に用意した料理を目の前に、自分の予想していたものと異なるとの理由で、すべてを作り直すよう、旅館に指示したと言うのです。
更に、「お金は支払うから。」と付け加えました。お客は、家族連れですから、そこには、小学生らしい子供たちも同席していたので、子供たちもその会話を聞いていました。その上での、父親の言葉です。
精魂をこめて板前さんたちが作った料理は、お客さんに食べてもらうことなく、捨てなくてはなりません。
そして、何より、料理の材料にされた魚介類を初め、多くの命が無駄になります。
女将は、客商売だけれども、そのお客様にはお引取りをいただいたと言っていました。
お金を出せば、食材になった命も、人のもてなしの気持ちも、自分の自由になるのだとの、思い上がった考えが態度に出た話だと思って、私はその話を聞きました。
親鸞聖人がまだ若かったとき、北条時頼の家で、写経の会があったそうです。大勢の僧侶と共に、親鸞聖人も招待されました。写経が終わって、食事が振る舞われたのですが、それは精進料理ではなく、鳥や魚の肉も入っていました。他のお坊さん方は袈裟をはずして、お召し上がりになりました。ところが、親鸞聖人だけは、ちゃんと袈裟を着けてお食べになっていたそうです。そこへ、小さな子供が出てきました。正しく、幼少の頃の時頼です。幼少の時頼が、「他のお坊さん方は、みんな袈裟をはずして食事をされているのに、あなたはどうして袈裟を着けて食事をされているのですか。」と尋ねたました。すると、親鸞聖人は、「魚や鳥たちを供養してやろうと思って、袈裟をつけていただいております。」と答えたそうです。
また、親鸞聖人は、自分が死んだ後は、「 某(それがし)、閉眼せば、 賀茂川(かもがわ)に入れて魚に与うべし。 」自分の死んだ後は、加茂川に流してくれ、そして、魚の餌にしてくれとの言葉を残したと伝えられています。
親鸞聖人がお考えになられたのは、自分が魚や鳥の命をいただいて、人生を生きさせてもらった。自分が死んだ時に、自分の死体だけは、誰にもやるな、ちゃんと火葬にしてくれよ。それでは、申し訳ない。自分の死んだ後は、この死体を魚に与え、自分が生きている間、魚に生かさせてもらった恩に報いたい。こう、考えられたのではないかと思います。
私たちは、多くの命をいただいて、この世を中で生きています。
それは、私たちが強いから、人間が偉いから、弱肉強食で権利があるからではないでしょう。お金を出しているから、食べる権利があるのでもありません。
私が今日生きているということは、私の力で生きているのではありません。
大きな他力の支えの中で、私は今日も生かされているのです。
その恵みを喜び、生活させていただきましょう。
平成19年5月13日