今日の法話2007/08/30
自覚は、人の生き方の根本。
皆さん こんにちは。
人が生きることにおいて、大事なことの一つに、自覚、即ち、己を知るということがあります。
自覚するということは、宗教においても、道徳においても、人の生き方の根本と言えます。
例えば、物を盗むのは、悪事をはたらくことに対して、善悪の自覚が無いからだと思います。
ところで、私は、毎日、ご門徒のお宅へお参りに出かけますが、お参りの際、ご法座の案内状を手渡し、寺へ参るようご案内させていただきます。
何度、ご案内しても、一向に、寺へ参らない方がおられます。
そういう方の決まり文句が、「住職さん、まだ、早いわ。もう少し、年を取ったらな。」であります。
ところが、あの天下の名文、蓮如上人のご文章、白骨の章にも、
「されば人間のはかなきことは老少不定のさかいなれば、たれの人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。」
とあるように、人の死は、老少不定、生死の分かれ目は、予想も付かないのです。
また、寺へ参らない人の、もう一つの決まり文句が、「連れがおらんからな。」であります。
しかし、「独生独死独去独来」(『大無量寿経』)のお釈迦様の言葉のごとく、後生の解決は、一人一人の「しのぎ」なのです。
この様に考えると、私達人間は、宗教に対して、いかに自覚が無いことでしょうか。
仏の鏡に照らし出された自分自身を見つめたとき、「心に思うこと」、「口に言うこと」、「身に行うこと」、『身口意の三業(しんくいのさんごう)』と言いますが、
何れの人も、皆、罪悪のかたまりであることを自覚しなければなりません。
そして、『歎異抄』には、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とあります。
即ち、こんな私こそが、阿弥陀如来のお助けの目当てなのだと言うことです。その事実を自覚したとき、「南無阿弥陀仏」とお念仏せずにはおれない私が存在するのです。
平成19年8月30日