今日の法話2007/10/11
故人は、確かに仏となっている。
皆さん こんにちは。
今日の法話をお読みになっている方の中には、親しい身内の方との今生の別れを経験し、愛別離苦の悲しみの日々をお過ごしの中で、救いを求め、当寺のホームページにたどりついた方もいらっしゃると思います。
浄土真宗の真実の信心、念仏に生かされる私たちは、仏様のおこころにより、浄土へ参らせて頂くのでありますから、皆様方の親しいお方は、すでに永遠の命を頂き、「無有衆苦 但受諸楽」と阿弥陀経にお釈迦様がお示しになられているとおり、素晴しい仏様の世界「浄土」に阿弥陀様と同じ仏様となって往生されているのですから、私のはからいは、一つも必要ありません。
しかし、仏の存在も浄土の存在も、私のはからいの及ばないところにあり、私も仏の救いの手の中にあるのだということを知ることは必要であり、後に残った皆様方は、その仏様のおこころを聞いていかねばならず、それは、「聴聞」という形で「行」を行なう必要があります。
「聴聞」の意味ですが、耳偏の「聴」と門構えの「聞」で聴聞となりますが、「聴」もきく、「聞」もきくと読みますが、字が違うと同じように意味が違います。
「聴」というは「往」、往復の往、行くという意味があり、「聞」は「来」、来るという意味があります。すなわち、聞きに行き続けているうちに、向こうから聞こえてくるということが聴聞の意味であります。
「耳」声を待つ、そのうち「声」耳に入るが聴聞の意味なのですが、何が聞こえてくるのかというと、「南無阿弥陀仏の名号」が、「仏様のお心」が聞こえてくるのです。
蓮如上人は、「仏法は世間の隙を掻きて聞け」とおっしゃいました。
「隙」と書いて「ひま」と読み、時間と時間の間を掻き分けるようにして聞けとおっしゃっているのです。南無阿弥陀仏のこころが聞こえてくると、その心に安心できるというのが、浄土真宗の他力の信心であり、親鸞聖人はそのことを「聞即信」とおっしゃったのです。
悲しみが癒えるわけではありませんが、悲しみの中から、再び出会うことのできる世界のあることが感じられ、亡き人の導きによって、私も仏様の救いの中にいるのだということに気付かされていくのです。
テノール歌手の秋川雅史さんが歌う「千の風になって」という歌が大ヒットとなっています。
先日、寺の墓地を見回っていたら、お墓に、その歌のフレーズ「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」が墓石の横の碑に刻まれていました。
私の周りに吹く風も、夜空に光る星も、鳥のさえずりも、私の周りのすべてが、私の愛する亡き人の化身であり、更に化仏となって、私を育み、守ってくれているのだとあじわうときに、亡き人は、決して墓の下で眠っているのではなく、覚者、目覚めた存在なのだ、仏様になっているのだと確かに思えてくるのです。
仏様の前に座って、心静かに仏様の教えを聴聞いたしましょう。
平成19年10月11日