今日の法話2007/11/02
「定善と散善の行」
皆さん こんにちは。
中国のある偉いお坊さんが、月想観という修行をしていました。
高い月見桜の上に登り、毎夜、月に面して心静かに座禅を組み、何日か経ったある夜、ついに月と自分が一つになり、悟りを得たのです。
お坊さんは、静かに立ち上がり、月見桜の長い階段を下りはじめました。
そして、階段の途中で立ち止まり、満足げに独り言を言いました。
「ああ、我、悟れり。」
また、静かに一歩一歩と階段を下りて、最後の一段から足が離れたとき、今までの流れるような動作が乱れました。
「私は、悪魔に魅せられていた。」
清浄になり、無我となったはずなのに、階段の途中で、「我」と言ってしまったのです。
心静かに三昧(さんまい)に入るような修行を、定善と言いますが、このような自力の行が完全な善にはなれないことを示す話だと思います。
また、悪いことをやめて、善いことをする行を散善と言います。
龍樹菩薩の書かれた「大智度論」にこんな話があります。
人間の心は、四十里四方の氷のようなものである。
そして、人が善行をするのは、その氷の一升分を熱い湯にして、相手の四十里四方の氷に、それをかけるようなものである。
一升分の湯をかけてもらった相手の心の氷は、そのおかげで少しはとけるでしょう。しかし、一夜明けるとどうでしょう。
その湯が氷になって、四十里四方プラス一升分の氷になるのです。
「人」へんに「為」という字を書いて、「偽」という字になります。
散善もあてにはなりません。
『仏説阿弥陀経』に、「不可以少善根 福?因縁 得生彼國」(「少善根福徳の因縁をもって、かの国に生まるることを得べからず。」)とあります。
「少善根福徳の因縁」とは、先ほどの二つの話、定善と散善の行のことです。
これでは、浄土に生れることは出来ないということです。
親鸞聖人は、「教行信証」行巻で、阿弥陀如来の大行、すなわち「名号」を讃嘆されて、「この行は、すなはちもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。」と仰っています。
つまり、私たちの自力の善根ではなく、阿弥陀様の五劫の思惟と永劫の修行によって仕上げられた名号こそ、煩悩にまみれた私たちが浄土に往生できる正因なのだということです。
煩悩具足の私達が、いかに自力の善根を積んでも、浄土に往生はできません。
阿弥陀様の本願こそが、私たちが浄土に往生できる正因なのです。
平成19年11月2日