今日の法話2007/11/13
「お念仏は、私のため。」
皆さん こんにちは。
あるご門徒の方が、自分がお寺参りをするようになった理由として、こんなことをおっしゃっていました。
「私は、家内が亡くなり、このお寺とご縁ができました。始めのうちは、念仏とは、亡くなった家内のためにするものだと思っていました。ところが、聴聞を重ねるうちに、そうじゃない、念仏とは、他の誰のためでもない。私のためのものであることに気づいてきたのです。」
このようなことを語られました。
歎異抄に親鸞聖人語録として、「念仏者は無碍の一道なり。」、その理由として、「天神地祇も敬伏し、魔界外道も障碍することなし。」とあります。
「天や地の神々もひれ伏し、魔界外道もそれをさまたげることはしない。」ということです。
つまり、障害も障害にならないということでしょう。
例えば、病気になっても、「病むときは、病むではないか。」と受け止めるようなものでしょうか。
私達は、自分にとって都合の良いときの順境の自分は受け入れますが、都合の悪いときの逆境の自分は、受け入れることができません。
自分の目の前におこった不幸を、人のせいにする心しかありません。
あの人を、この社会を、この時代を、この運命を、と、呪わなければ、自分の心の持って行きようがないのです。
そして、最後には、ご先祖様のタタリのせいにまでしないと気がすまないのです。
「病むときは、病むがごとき候。」と、自分の中に受け止めるどころか、先祖のせいにする。そして、この誤った考えを、拝んだり、祈ったりすることが宗教だと思っている。
タタルと困るから、仏壇を拝む。仏が迷うと困るから、僧侶に読経をしてもらうと続くのです。
「お念仏は、私のため。」ということは、たとえ四苦八苦の苦しみに出会おうとも、「遇うべきして、遇わせていただいた。」と受け止め、どれほどの責任を転嫁しても、愚痴でしかないことを知り、大無量寿経にお釈迦様がお示しくださった、「身、自らこれをうくるに、だれも代わるものなし。」という自分自身のこととして受け止める強い力がそなわっていくことではないでしょうか。
平成19年11月13日