今日の法話2007/11/27
「如来様よりたまわる信心」
皆さん こんにちは。
第一次世界大戦の初期、ドイツ軍は、破竹の勢いでベルギー領へなだれ込み、ある町を占領しました。
その際の出来事として、フランスの新聞に次のような記事が掲載されました。
町の人は、皆、逃げてしまった。
後に残ったものは、犬ばかり。
どの犬も、道端に二六時中、頭を一方に向けて緊張した。
悲しげな顔つきで待っている。
何を待っているのか。
逃げた住民の誰かが、時たま戻ってくることがある。
そうした人の影が遠くに見え出すと、これらの犬は一斉に耳を立てる。
目を大きく見開いて、やがて、その中の一頭が急に蹴り上がって、一目散にとんで行く。
彼は、主人を見つけたのだ。
その身体は、ふるえる喜びそのものである。
他の犬は、しょんぼり、わが居場所にうずくまっている。
そして、待っている。
この様な記事でした。
犬は、顔に表情を出しません。
その分、体全体でその喜びを表します。
主人に出会った犬の喜びが、とてもリアルに表現された記事だと思います。
人間を犬にたとえるのは、どうかと思いますが、私達人間も、八方ふさがり時、どうしようもない時、私の歩む方向を教えてくれる師に出会うことは、大変な喜びでしょう。
親鸞聖人は、法然上人との出会いを通じて念仏の教えに出会い、その教えを聞くたびに、眼を輝かし、身も心も飛び上がるほどの喜びを味わったに違いありません。
そこで、考えたいことは、はたして私達は、お念仏との出会いの中で、身も躍るほどの生き生きした感動を味わっているかということです。
亡き人が縁となり、すがるような思いで始めて寺へ参り、聴聞をした時のことを思い出してください。感動があったことと思います。
「八方ふさがりの時が、八方へのびる時。」という言葉があります。
それは、自分の立場を知ることにより始まる、新たなる出会いによる感動と躍動があるからです。
では、何を持って八方ふさがりというのでしょうか。
仕事で行き詰ったときでしょうか。親や子に裏切られたときでしょうか。
されも、八方ふさがりには違いありませんが、しかし、これらは何れも、生活の上での行き詰まりです。
もっと大きな世界で、命という尺度で自分を見たとき、即ち、仏教観をもって八方ふさがりを考えれば、念仏との出会いのない人生、仏様に救われる身を知らない人生、後生など考えたこともない人生こそが、八方ふさがりということになります。
聴聞して、最初は感動があったけど、今はあまり喜びを感じない方。
あなたの信心は、「如来様よりたまわる信心」ではなく、「如来様へ差し向ける信心」になっていませんか。
平成19年11月27日