今日の法話2008/03/26
お骨へ、魂がやどるのではない。
皆さん こんにちは。
先日、あるご門徒のお宅で、こんな問題が起こりました。
とても若いお母さんがお亡くなりになったのです。
小学生低学年のお子さんと生れたばかりの赤ちゃんを残してのことでした。
残されたご家族の心中は計り知れないものがありますが、この門徒は、私のお寺でも古いほうに属する昔からの浄土真宗のお宅です。
ところで、何度目かの中陰法要にお参りしたときのことです。
こんな相談を受けました。
その亡くなった若いお母さんの実家のお母さんもいつもお参りに来られているのですが、その日も来られていました。
相談と言うのは、亡くなった若いお母さんのご主人からでした。
「実は、女房のお骨を少し分骨して、実家のお母さんに差上げたいと思うのです。女房のお骨を実家の先祖の墓にも入れてあげたいのです。どうしてこんなことを言うかといえば、女房の実家は代々女系で、墓には女房の祖母も入っているし、何れは女房のお母さんも入られる。それに現在元気なお母さんも、実家のすぐそばにある墓に娘のお骨があれば、いつでもお参りできますしね。」
こういう話でした。
私は、このご主人の亡くなった奥さんへの思いやり、そして、奥さんのお母さんへのやさしい気持ちをしみじみ感じました。
ところが、実家のお母さんは、こう言われました。
「ちょっと、考えさせてください。分骨はよくないと、世間では聞きます。分骨をすると魂がバラバラになるとも聞いたことがあります。それに、いったん嫁に出すと姓が変わるし、姓の違う仏さんを墓に入れるとよくないでしょう。」
私は、驚きました。この実家のお母さんにしても、娘を亡くした心痛は、いかばかりかと思うわけですが、その苦悩がとらわれるべきでないことにとらわれることにより、自らを余計に苦悩させ、しかも人の思いやりがわからない身となっているのです。
この様な考えがおこるのは、遺骨そのものが故人であるという考えからでありましょう。
しかし、お骨へ魂がやどるのではありません。
故人は、お浄土へ参られ、そして、私もいつかは参らせていただき、そこは、また、故人と出会う場となるのです。
おのれの尺度で死後の世界を捉えてはなりません。
そのような捉え方が、不幸が重なれば先祖のせいなんだ。墓の方向が悪いんだ。と余計な迷信を考えるお粗末な考えを生むのです。
分骨も一つの尊い仏縁と捉えなければなりません。
平成20年3月27日