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今日の法話2009/04/25

「法話の聞き方」

法話は聴聞する方がわが身に置き換えて聞く、法の鏡にわが身を映すことにより、「そうであった」と気付かされるものでなければなりません。
「法話の聞き方」とでもいうのでしょうか。

法事のときにご文章拝読の後、「仏説無量寿経」を読み下したことばを拝読しました。

田があれば田に悩み、家があれば家に悩む。牛馬などの家畜類や、金銭・財産・衣食・家財道具、さては使用人にいたるまで、あればあるにつけて憂いはつきない。……
また、田がなければ田をほしいと悩み、家がなければ家をほしいと悩む。牛馬などの家畜類や、金銭・財産・衣食・家財道具、さては使用人にいたるまで、なければないにつけて、またそれらをほしいと思い悩む。たまたま、ひとつが得られると他のひとつが欠け、これがあればあれがないというありさまで、つまりは、すべてを取りそろえたいと思う。そうして、やっとこれらのものがみなそろったと思っても、それはほんの束の間で、すぐにまた消え失せてしまう。


その後の法話で、貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)の三毒の煩悩渦巻く娑婆の世界について話した後、お墓に参る準備をしていると法事にお参りの親族の方が私のところへ来られて、「今日は実に良い法話を聞かせてもらった。あの話は私の兄弟のことのようであった。あの人たち(兄弟)は、本当に欲深い。」とのことでした。

尋ねずとも話してくれた話によると、親が亡くなり、兄弟で親の財産を分けたが、他の兄弟に比べ自分の取り分が少なかったため、納得がいかず兄弟と仲違いしているとのことでした。

法話も自分のこととして聞かねば聞いた甲斐がないというものです。

平成21年4月25日