今日の法話2007/01/26
宗教の本質とは人間の本質との出会いと人間の生き方の決定である
皆さん こんにちは。
今月は、当寺院でも、宗祖親鸞聖人のご命日をご縁として勤められる法要、「ご正忌報恩講」が勤まりました。
大勢のご門徒の方々がお参りされましたが、そのお心を、参詣者のお参りのご様子から想像してみたときに、当然ながら、家内安全だとか、息災延命だとか、商売繁盛など、暮らしぶりの願いは、私には、みじんも感じられませんでした。
親と別れ、連添いと別れ、子と別れ、その悲しみを縁として、生き方の決定と人間の本質との出会いを求めるために、皆、ご参詣されているのだと思いました。
ところで、宗教の本質とは、いったい何なのでしょうか。
宗教の本質は、生き方の決定を明らかにするものでなければなりません。
それが、いつの間にか、世間では、暮らしぶりの話になっているのです。
景気の良い時あり、悪い時もあり、健康な時もあれば、病に伏す日もあります。これは、神様や仏様に祈ってもどうしようもないことでしょう。
病気は嫌だ、お金がないのは嫌だ、災害は嫌いだと言っても、人間は、それらから、逃げることも隠れることもできないのです。
この身の事実として、私の身の上に起きた出来事として、それを受けていかねばなりません。
受ける以外にどうしようもないのです。
そこに、宗教の本質と役割があります。いかに生きるかを教えるのが宗教の役目です。それらの出来事を、神や仏が肩代わりしてくれるものでも、断ち切ってくれるものでもありません。
仏法との出会いとは、言葉を変えれば、自分に目覚めるということです。
目覚めた人の生き方は、常にわが身が問われていきます。
わが身を問うということは、わが身が見えるということです。
こんな話があります。
あるご法座で、八十才ぐらいのおばあちゃんが、熱心にお説教を聴聞していました。そのおばあちゃんの聞法の態度に感動して、Aさんが聞きました。「おばあちゃん、むずかしいお話を、熱心に聞いておられますが、何年ほどお聞きになりましたか。」
すると、おばあちゃんは、「ハイ、私は、20年ほど聞かせていただいています。」と答えたそうです。
Aさんは、驚いて、「20年もお聞きなら、随分いろいろなことを知っておられるでしょう。」と言ったら、「ハイ、20年聞かせていただいたおかげで、腹は立つものだとわかりました。」と答えたそうです。
私は、この話を聞いて、このおばあちゃんの生き方に、頭が下がる思いがしました。
普通なら、「お念仏の話を聞いて、怒る心もおさまり、欲深い心も治り、腹も立たないようになりました。」と話すところでしょう。
ところが、そのおばあちゃんは、腹は立つものだとわかったと言ったのです。
腹は立ててはならないと思っても、腹が立って仕方がない、欲をおこしてはならないと思っても、思う下から、いよいよ欲が深く湧き出てくるわが身が明らかになったと言っているのです。
すなわち、自分に目覚める、わが身が見えたと言うことでしょう。
宗教の本質とは、人間の本質との出会いであり、いよいよ自分が深く見えてくることなのです。
平成19年1月26日