今日の法話2007/02/22
この世で浄土を感じることは出来る
皆さん こんにちは。
仏様の教えとは、私が、幸せを拾う法を学ぶ教えであり、仏教とは、私が、仏になるための教えであります。
では、その仏教の中で、浄土真宗の教えとは、どういったものなのでしょうか。
先日、お葬儀の時、タクシーに乗りました。
斎場までの往復、タクシーの運転手さんと世間話をしていたのですが、その会話の中で、「運転手さんのお家は、どちらのご宗旨ですか?」と私は、運転手さんに尋ねたのですが、「南無阿弥陀仏と唱えるのですが、さて?」とのことでした。
それから、宗旨、宗派の話をし、結局、取次の寺の名をご存知だったので、浄土真宗だと分かりました。
さて、あなたは、「あなたの、ご宗旨は?」との問いに、「浄土真宗です。」と答えることができますか?そして、「ご本山は?」との問いに、「西本願寺です。」と答えることができますか。取次のお寺も、「どこのお寺の門徒です。」と答えることができますか。
そして、「浄土真宗とは、どんな教えですか?」との問いに、「こんな教えです。」と、答えることができますか?
本日は、その「浄土真宗とは、どんな教えですか?」について、ご説明致したいと思います。
ところで、人間の究極の目的とは、いったい何でしょうか。
それは、悟りに他なりません。悟りとは、仏教では、とても重要な教えであり、悟りの反対は、迷いであり、迷いは、やがて苦しみに変わりますから、悟りの定義は、苦しみがないということです。
いきなり、人生の目的は、「悟り」と言われてもピントこないかもしれませんが、悟りの定義を説明すると、なるほどと思われるに違いありません。
しかし、「あなたにとっての人生の目的とは?」との質問には、たいていの人は、仕事で大成する、趣味を極める、子供の成長などと答えます。
しかし、これはあくまで生活の上での目的であり、生活の目的は、仕事を退職したり、年老いたり、子供が一人前になったら、人生の途中であっても、喪失しなければなりません。
即ち、人生の目的とは、生涯、私の人生の底を貫く目的でなければなりませんから、究極の目的は、「悟り」に他ならないのです。
しかし、はたして人間は、この世で、悟ることが出来るのでしょうか。
私たち人間は、様々なものにとらわれ生活しています。損得にとらわれ、愛憎にとらわれ生きています。それは、人間の本質であり、人間が人間である以上、様々なとらわれから逃れることなどできません。
したがって、そんな人間が、悟ることなど到底できるものではありません。
そして、迷いは、やがて苦しみに変わりますから、お釈迦様も、人生は「一切皆苦」とおっしゃっているのです。
また、親鸞聖人は、そんな人間のことを「迷いの凡夫」、「煩悩具足の凡夫」とおっしゃいました。
人生の目的は、苦しみから逃れること、即ち「悟り」を得ることなのですが、人間が人間である以上、悟ることはできません。
では、人間は、いつ悟ることができるかと言えば、それは涅槃、即ち死んだ時ということになります。
しかし、「死んだら仏」と言うことばもありますが、誤ってはいけないのは、仏になるための条件が「死」ということではありません。
悟りの条件としての「死」の必要性は、あくまで「仏になる刹那」であるということ、「時」を条件としているのであり、時期のみのことを言っているのです。誰しも、死は望みませんし、また、死を望むことは許されるものではありません。
では、死の刹那に、どのようにして、私は、仏となることができるのでしょうか。
自分の力で仏になることが出来るのでしょうか。
様々なものとらわれている愚悪の凡夫である私たちは、けっして、自分の力で仏になることができません。
もちろん、修行を行い、戒律を守り、善根を積み続けることができれば、悟ることも可能なのでしょうが、凡夫(凡夫劣夫 ぼんぶれっぷ‥‥つねなみの人)は、修行も戒律も善根もできない身です。
罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫の私たちは、悟り、仏になることなど到底できず、地獄必定と言えましょう。
したがって、身らの力で仏になることが出来ないのですから、仏の力に頼るしか無いのです。
即ち、仏(如来)の力によるしか、私たちは仏になれないのです。阿弥陀様の本願によるしか、私が浄土に往生する(仏になる)ことは出来ないのです。
そして、本願とは、根本の願いと言うことですが、誰の願いかと言えば、「如来の本願」ですから、「阿弥陀様の願い」なのです。私たち、凡夫を救うために私たちのために立てられた阿弥陀様の願いなのです。
阿弥陀様が、南無阿弥陀仏の名号となって私のところへ出向いてくれ、一寸先が闇の私の人生を、明るく希望のあるものに変えてくださる教え、これが浄土真宗なのです。
悟りの地である浄土に生れるのは、死が縁となりますが、私が、阿弥陀様に救われて、悟りの地である浄土に生れることを信じ、浄土を感じることはこの世での出来事です。
この真実の教えが感じられることを、信心と言います。
そして、信心をいただくための行を聴聞と言うのです。
どなたにでも理解できるようにと、浄土真宗の教えをご説明したつもりですが、難しいですね。
また、何度かに分けて、「今日の法話」でお書きしたいと思います。
平成19年2月22日